
1年時に8区の区間新記録を叩き出した大塚正美選手は、翌年は“花の2区”を走ると予想されていたが……(写真は1983年第59回大会で2区を走った大塚選手)
10区間に分かれた「箱根駅伝」の中でも、「山の神」や「山の妖精」など数多くの印象に残る名選手を生んで、“花の2区”に勝るとも劣らない注目を集めるのが“山登りの5区”だ。4年連続区間賞を成し遂げた伝説的ランナー・大塚正美選手は日本体育大学2年時にこの箱根5区にエントリーしている。もともとトラック競技のスピードスターだった大塚が山登りに挑んだ経緯とは──。
話題の新刊『箱根駅伝“最強ランナー”大塚正美伝説』(飯倉章著)より抜粋・再構成。
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【大塚正美成績】1981年・第57回大会 5区「区間賞」
大塚正美は、1980年冬には順当に日体大の箱根メンバー候補に選ばれた。この年は2年生の同期では大塚だけではなく、谷口浩美や岡俊博といった後の箱根の名選手もメンバーに入っていた。
マスメディアの注目も集まった。
前年の8区での快走と、3月に有力な4年生がごっそりと抜けたことから、大塚が2区に回ると大方は予想していた。何と言っても「花の2区」である。
日体大駅伝部の指導者も、2区を走らせるつもりだった。ただ、2区には有力な先輩ランナーがいた。大塚は自ら5区を志願した。当時の報道(読売1980年12月17日付)では「11月末ごろ、5区を走れと言われびっくりしました」という本人のコメントが残っているが、「真相」は自ら志願したとのことである。
12月13日には、大会本部から第57回箱根駅伝に参加する15校のメンバーの発表があった。大塚の名前は5区にあった。
にわかに5区に注目が集まるようになった。順天堂大学との対決もそうだが、大東文化大学・大久保初男選手の残した記録にどこまで迫れるかも注目された。大塚自身、報道によれば区間記録の更新に意欲を示していた。
山の大魔神・大久保初男選手

箱根駅伝コースMAP
今も「山の神」や「山の妖精」など数多くの印象に残る名選手を生んで、2区に勝るとも劣らない注目を集める山登りの5区である。ここに山登りのスペシャリストがいるのとそうでないのとでは大きな差が出ることは、近年の箱根駅伝でも証明されている。平地以上に差がつきやすく、逆転劇も生まれやすく、駅伝がタイムレースで往路の成績が総合優勝に大きく影響することを考えると、最重要の区間ともいえる。
当時も5区の重要性は十分に認識されていた。
大塚の世代より前の1975年(第51回)・76年(第52回)の箱根は、大東文化大学が2連覇を果たしたが、その原動力となったのが1974年(第50回)から4年連続で5区で区間賞を取った大久保選手だった。元祖「山の神」といえる存在であり、「山の大東」という異名も彼から生まれたという。それは、青葉昌幸監督による独特の指導の賜物だった(工藤隆一『箱根駅伝100年史』河出書房新社、2023年/116~119ページ)。
大東大はこの頃もロード主体の練習をしており、第57回大会の下馬評でも「ロードで鍛え抜かれた選手が大半」で、天候の悪化などがあれば他校よりも底力を発揮するのではないかと見られていた(読売1980年12月18日付)。
大塚は大久保選手の練習を、陸上の月刊誌の写真で見たことがあったし、他人から聞いたこともあった。
「すごい馬力の持ち主で、人間機関車だよ。山登りの練習で、ビール瓶を両手にぎゅうっと握って、ぐんぐん登っていくんだから。ぶったまげた」
今ではランニング中には、手は卵が割れない程度に軽く握るのが基本である。
「でも、そういう型破りなトレーニングで強くなったんだから、それはそれでいいんだ」と大塚は言い、「登りきってから、ビールを開けて一杯やっているんじゃないかと思った」と笑った。
「すごい選手だった。山の神というレベルではなかった。山の大魔神だよ」と大塚は称賛を込めて言う。
一方、この年の日体大は、大塚の同期生が4人も箱根デビューを果たし、2年生が5人箱根を走った。3区中沢栄、4区岡、5区大塚、6区谷口と4区間連続で2年生で、7区の3年生を挟み、8区藤井修も2年生である。「大塚世代」と呼ばれるのは嫌だろうから「79年入学組」と呼ぶが、この学年は実力者が揃った黄金世代・黄金の学年だった。
その証拠に、この5人は全員が少なくとも一度は箱根で区間賞を獲っている。大塚が4回、谷口が3回、岡が2回、中沢・藤井が1回である。なかなかできることではない。
因縁の上田選手と「箱根山中での一騎打ち」
ライバルの順天大には、山登りのスペシャリスト上田誠仁選手がいた。(今では前の山梨学院大学監督としても著名である)
上田は、2年時の1979年正月(第55回)に5区で区間賞を取り、順天大の13年ぶりの優勝に貢献し、大塚がデビューした1980年正月(第56回)も5区区間賞で日体大を脅かしていた。大塚の2学年上で、4年生最後の箱根では、3年連続の区間賞を狙っていると言われた、押しも押されもせぬ順天大のエースだった。
5区でタイム差をつけられると、順位に大きく影響する。山登りの実績は未知数であったが、大塚の5区起用は上田対策、さらに優勝に必要な措置でもあった。
大塚は上田選手とは因縁があった。
8カ月ほど前の2年時5月の関東インカレ5000mで、「激闘」を繰り広げた因縁の相手だったのである。
トラックでの因縁の相手と箱根で対決するのを、大塚は楽しみにしていた。今度は相手の得意分野で闘うことになる。
当時、絶大な人気を誇った早稲田大学の瀬古利彦選手が卒業した後の最初の箱根で注目を集めたランナーは、大塚と言ってよいだろう。関東インカレ・日本インカレの5000m・10000mをともに制し、河口湖マラソンでも優勝していた。日体大の岡野章監督も「ロサンゼルス五輪のホープ」と持ち上げ、新聞でも「“ポスト瀬古”の声がかかる学生NO.1の大塚」と紹介した(読売80年12月31日付)。
元旦の読売新聞では「箱根駅伝あす号砲」という見出しの後に、さらに大きな活字で「注目の五区山登り 大塚(日体大)×上田(順天大)」と打って、展開次第では「箱根山中での一騎打ちが見られるかもしれない」と盛り上げた。
大塚への注目は、日体大や駅伝関係者のみならず全国的なものになっていた。
事前情報の誤算
1981年1月2日、第57回箱根駅伝が始まった。
天気は快晴だった。箱根の山の上には、同期2年生の仲良し3人組の一人の関口一雄がいた。1年生の時の箱根前に何回も何時間もマッサージをして、大塚の調整に貢献した陰の功労者である。
走る数時間前に、大塚は宿舎から電話をかけ、箱根の山頂の天候を訊いた。
「雪は降っていない。いい天気だよ」と関口は答えた。
大風の情報はなかった。携帯電話もない時代である。わずかな情報を信じて準備をする。
「寒いのか?」
「あー、大丈夫だよ」と関口。
大塚はそれならばと、普通なら半袖、用心すれば長袖であるが、ランニングシャツで走ることにした。
他校の選手は半袖を着ているのに、一人だけランニングシャツ姿である。
これがあとで大きな誤算となったのだった──。
【プロフィール】
飯倉章(いいくら・あきら)
1956年、茨城県古河市生まれ。1979年、慶應義塾大学経済学部卒業。1992年に国際大学大学院修士課程修了(国際関係学修士)。2010年、学術博士(聖学院大学)。国民金融公庫職員、国際大学日米関係研究所リサーチ・アシスタントを経て、現在、城西国際大学国際人文学部教授。著書に『イエロー・ペリルの神話』『日露戦争諷刺画大全』『黄禍論と日本人』『第一次世界大戦史』『1918年最強ドイツ軍はなぜ敗れたのか』『第一次世界大戦と日本参戦』など。スポーツ・ドキュメンタリーを手掛けたのは本作品が初めてとなる。