金を稼ぎたい、モテたい、強くなりたい…“関節技の鬼” 藤原組長が語る「個性を磨いた新日本道場の凄み」《長州力が不器用さを個性に変えられたワケ》

“藤原組長”こと藤原喜明

“藤原組長”こと藤原喜明

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昭和の新日本プロレスを語るうえで欠かすことのできないレスラー、“藤原組長”こと藤原喜明。“神様”カール・ゴッチ直伝の関節技を極め、「ストロングスタイル」を標榜する新日本の根幹を成す存在だった。「プロレスとは闘いである」という“猪木イズム”に忠実に生きた藤原が語ったのは、プロレスラーとしての「個性」の重要性だ。

のちに“関節技の鬼”と呼ばれる藤原だが、もともと柔道やレスリングなどで輝かしい成績を残していたわけではない。「自分の居場所をつくるには強くなるしかない。だから練習したんだよ」と語る藤原が考える「個性」とは── 。

新日本道場の最強伝説を集めた書『アントニオ猪木と新日本「道場」最強伝説』(宝島社)より、一部を抜粋して再構成。【全3回の第1回】

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道場はそれぞれの“個性”を磨く場所

藤原は、生来の凝り性と、道場というサル山で生き残るための術として関節技のスパーリングに没頭していったが、他の選手たちは、キャリアを重ねると次第にスパーリングをやらなくなっていった。耳当たりのいい言葉に置き換えれば、セメント(編集部註:「真剣勝負」を指すプロレス界の隠語)のスパーリングを“卒業”していき、リング上で“魅せる”レスラーになるべくシフトチェンジしていく。

「合同練習でスパーリングがなかったとしても、俺は誰か相手を見つけて勝手にやっていたよ。みんなはウェイトトレーニングが練習かもしれないけど、俺にとっての練習はそれだったからね。ただ、だからといって他人をどうこう言うつもりもないんだ。プロレスラーというのは個人商店みたいなものだから、『自分はこうなりたい』という理想のプロレスラー像がそれぞれあって、みんなそれに向かって練習しているわけであってね。

『たくさんテレビに出てちやほやされたい』というヤツもいれば、『とにかくカネが稼げるレスラーになりたい』とかね。あるいは、『女にモテるような見栄えのする肉体をつくり上げたい』とかね。そのなかで俺は、自分が『これだ!』と思った関節技を突き詰めたいと思った。それぞれ個人商店の経営方針が違うんだ。それだけの話だよ。

俺は好きだから関節技の練習と研究を続けていたんだ。みんなは途中で『もうスパーリングはいいや』と思ったのかもしれないけど、俺は面白いなと思ったら、とことん追求するからね。盆栽だってもう50年やってる。毎日水をやって肥料をやったり針金をかけたりして続けてきたけど、飽きることはないし、知識が増すことでますます興味が出てくるんだ。俺はそういう性格だっていうだけで、それぞれ趣味嗜好も違うし、才能も違うからね」

考えてみれば、“セメント”の技術というのは、いざという時に必要になるもので、通常の試合で頻繁に使うものではない。またプロレスは、グラップリングの強さを競う“競技”ではないので、寝技で一番になる必要は必ずしもない。有事の際に自分の身を守れる技術さえあればいいということとなる。

つまり昭和の新日本では「懐にナイフ(セメントの技術)を携えておかなければならない」という考えを多くのレスラーが持っていたが、ナイフは一本あれば十分。何十、何百種類もナイフを所有し、その使い道を研究し続けたのは藤原ぐらいだったのだろう。

入場無料のチャリティーイベントに出場し、ザ・グレート・サスケ(左)を攻めるプロレスラーの長州力(時事通信)

入場無料のチャリティーイベントに出場し、ザ・グレート・サスケ(左)を攻めるプロレスラーの長州力(時事通信)

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なぜ、藤原は「関節技」をひたすら研究したのか

道場での練習を大学の授業でたとえるならば、寝技のスパーリングは、新入生にとっての数ある必修科目の一つ。大半のレスラーは、必修の単位を取得したあとは、よりビジネスに直結する勉強をしていく。そのなかで藤原は、関節技というマイナーで、お金にならない(と思われていた)、それでいて新日本という団体にとって大事な研究をひたすら続けていた研究者だった。

「一つのプロレス団体には、それぞれに役割があるんだよ。お客を会場に呼ぶ役割の人間がいれば、道場で腕を磨いて何かあった時に出ていく役割の人間もいる。そのなかで俺は、猪木さんの言う『プロレスは闘いである』という基本的な部分を担当していたわけでね。どの部署が偉いとか、そういう問題じゃないんだ。

また、『闘い』一つとっても人によって考え方が違う。長州力なんかはオリンピックに出ているくらいだから、レスリングに自信とこだわりがある。関節技に関しても『自分はテイクダウンされないんだから必要ない』っていう考えだろ。それはそれで長州の正義だから、いいんだよ。

逆に俺はアマレスの実績なんか何もないけど、長州の知らない人の殺し方を知っている。俺に言わせればテイクダウンする方法はタックルだけじゃない。パンチもあれば蹴りもあるし、いろいろあるからね。それぞれが自分なりの考えや技術、そして自分なりの正義を持っているからプロレスは面白いんだ。

だから長州は、オリンピック選手として鳴り物入りで新日本に入ってきて、俺はべつにテレビや雑誌に出る人間じゃなかったけど、あいつがうらやましいとも思わなかったし、仲は良かったよ。よく野外の興行の時なんかは、『おい、余ってるか?』って言って二人で客から見えない場所に行ってタバコを吸ったりな(笑)。

長州といえば、こんなこともあった。昔の地方巡業での宿泊先は旅館が多くて、俺ら下っ端は大部屋で雑魚寝だったんだよ。そしたらある日、夜中の2時くらいに長州が寝ている俺の横にドカッと座って、『藤原さん、起きてください!』って言うから、『なんだよ?』って聞いたら、『ちょっと近所まで付き合ってください』って言うんだ。

『なんだよ、こんな夜中に……』と思いながらも着替えて、近くのスナックに行って酒を飲んだら、あいつが愚痴をこぼすんだ。それで俺も『うん、そうだな』って話を聞いてやってね。そういう間柄だったんだよ」

長州力が猪木氏と写った1枚(長州のブログより)

長州力が猪木氏と写った1枚(長州のブログより)

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エリートにはエリートの悩みがある

長州はミュンヘン五輪代表の実績を引っ提げて新日本に入団。しかし、同じミュンヘン五輪に出場した全日本プロレスのジャンボ鶴田が、デビュー早々からジャイアント馬場に次ぐナンバー2として活躍したのに対し、長州は新日本でなかなか芽が出なかった。

レスリングなら誰にも負けないという自負がありながら長らく中堅に甘んじた長州にとって、道場での実力がありながらもくもくと前座試合を務めていた藤原は、どこかシンパシーを感じる存在だったのかもしれない。

「べつに俺なんか華やかなスターになろうとは思ってなかったけど、長州からそういう愚痴を聞いて、エリートにはエリートの悩みがあるんだなと思ったよ。長州は不器用だったけど、だんだんその不器用さが個性になっていって、直線的なファイトで成功したよな。レスラーには個性が大事なんだ。それは役者の世界と同じかもしれない。

俺がVシネマによく出ていた時に共演させてもらった松方弘樹さんが、ある有名な役者さんのことをこんなふうに言ってたんだ。『あの人は3行以上のセリフが覚えられない。それぐらい不器用なんだ。でも、その不器用さを続けていくことで強烈な個性になった』ってね。

長州が小賢しい器用なことをやったところで面白くもなんともないんだよ。自分の個性を見つけることで、今の長州がある。昔はよく『地味だ』と言われた俺も、自分なりの個性を貫いたことで今があるのかもしれないな」

取材・文/堀江ガンツ

(第2回に続く)